- 普通の文: 社長は 私に おつかれさまと 言った。
- 尊敬語の文: 社長は 私に おつかれさまと 言われた。
- 受け身の文: 私は 社長に おつかれさまと 言われた。
同時に、受け身形では主語は変わりますが、動詞は尊敬語と同じように「言われた」を使って、話し手が相手の行為を受けたことを表しています。その行為もやはり、話し手の意思と関係ないところで行われています。こういう共通点があることから、文の構造は違っても、「尊敬語」と「受け身形」の動詞の形が同じなのかもしれません。(私の推測です。)
それから、日本語では受け身形が多く使われます。ここには日本人の心理と日本語の特徴が表れている気がします。例えば、先日日本語のクラスで日本人写真家・杉本博司(すぎもと ひろし)のウェブサイトを読んでいた時、私たちは彼が受け身形を多用していることに気がつきました。
私は「蝋燭の一生」を記録してみることにした。ある真夏の深夜、すべての窓は開け放たれて、その夜の風が招き入れられた。蝋燭に火がともされると共に私のカメラのレンズも開かれる・・・ (http://www.sugimotohiroshi.com/praiseJP.html)
彼はここで4つ受け身形の動詞を使っていますが、実は全ての行為は写真をとる準備のために、彼が行ったことです。自分がしたことにも関わらず、受け身形を使う彼の心理は?この写真のプロジェクトで彼は暗闇の中、一本のろうそくの火を撮り続けます。電気がない真っ暗な夜はまさに神々が現れる時。その闇と火と見つめ合うことは、自然の力に敬意を抱き、その“超自然”なパワーをそのまま受け入れることなのだと思います。ですから、写真家は準備段階からすでに自然の力に飲み込まれていて、自分の行為さえも自然の力のもとでされたことと感じているのだと思います。
そして、このような受け身形の使い方は日本人にとって変ではありません。きっと日本人はこの写真家のような感覚を持っているのでしょう。
また、上記の文は文法的に説明すると、完全に受け身形なのですが、自然の力に敬意を表しているという点では尊敬語のような感じにもなるのかもしれませんね。
ちなみに、この写真家はバイリンガルなので英文のページもあります。でも、英文では受け身形で書かれていません。(http://www.sugimotohiroshi.com/praise.html)
*『伊勢神宮の謎を解く―アマテラスと天皇の「発明」』、武澤秀一、ちくま書房、2011年